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東京高等裁判所 昭和54年(ネ)1026号 判決 1980年7月10日

控訴人

芳賀智彦

右訴訟代理人

鈴木孝夫

外二名

被控訴人

芳賀赫子

主文

原判決を取消す。

控訴人と被控訴人とを離婚する。

控訴人と被控訴人との間の長女容子(昭和四四年九月七日生)及び二女玲子(昭和四七年一一月二九日生)の親権者を被控訴人と定める。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実《省略》

理由

一原審における控訴人及び被控訴人各本人の供述並びに弁論の全趣旨によれば、控訴人と被控訴人とは、昭和四二年一二月一六日婚姻の届出をした夫婦であつて、その間に、同四四年九月七日長女容子、同四七年一一月二九日二女玲子がそれぞれ出生したこと、控訴人と被控訴人とは、同四九年七月三〇日ころから別居して、現在に至つていることが認められる。

二1  <証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。<証拠>及び右被控訴人本人の供述中この認定に反する部分は信用することができず、他にこれに反する証拠はない。

(一)  結婚後間もなくのころから、控訴人は、被控訴人が読書にふけるなどのため食事の準備や後片付けその他の家事をおろそかにし、家の中の整理が悪く、戸締りを忘れるなどするため、被控訴人を非難し、激しい口論になることがしばしばあり、両者の間は円満を欠いていた。

(二)  被控訴人は、昭和四八年九月ころから、キリスト教の一派の「ものみの塔」に関心を寄せ始め、次第にその信仰を深めて行き、同五〇年五月に洗礼を受けた。

(三)  その間、被控訴人は、昭和四九年春ころから、毎週夜間二回と昼間一回行われる「ものみの塔」の信者の集会に熱心に出席するようになり、ときには自宅を提供して集会を開くこともあつた。控訴人の要望にかかわらず被控訴人は、右の集会の出席のためにいつそう家事をおろそかにするようになり、また、留守勝ちともなつたので、控訴人は、家庭の安息が失われるとして、被控訴人の集会参加を嫌つた。

(四)  「ものみの塔」は、独特の終末観を説き、医療行為における輸血を禁じ、正月、ひな祭り、七五三等の習俗的行事を認めない(被控訴人も昭和四九年三月のひな祭りを祝わなかつた。)など、キリスト教の他の各派ともかなり異なる教義規則を持ち、かつ、他の宗派を厳しく排斥するものであつて、その教義規則は、控訴人にとつて、困惑や不安を覚え、とうてい同調しがたいものであつた。

(五)  控訴人、被控訴人夫妻は、控訴人の勤務先の下僚の結婚の仲人を引き受け、結納をもすませていたが、被控訴人は、挙式の日の近付いた昭和四九年五月ころ、控訴人の同意を得ないで独断で、新郎、新婦双方に対し、信仰が異なることと自分達の夫婦仲が悪いことを理由に、仲人を断わり、そのため控訴人が面目を失う事態となつた。

(六)  このようなことから、控訴人にとつては、被控訴人が右の信仰を維持することが堪え難く、控訴人は、被控訴人に対し、結婚の継続を選ぶのか宗教を選ぶのかなどと迫つて、信仰を止めるよう再三要求したが、この信仰こそ家庭生活夫婦生活を是正する途と考えている被控訴人には容れられず、昭和四九年七月中旬には、被控訴人の所持する「ものみの塔」関係の書物を焼却しようとし、被控訴人の懇願によつてこれを思い止まつたものの、被控訴人の態度を変えることはできなかつた。

(七)  控訴人と被控訴人とは、従来からの不和に加えて、このような信仰と生活態度をめぐつて、対立が深刻化し、両者の話合いによつて融和の途を見出すことがきわめて困難な状態となつた。

(八)  かくして、控訴人は、被控訴人とはもはや同居を継続しえないと考え、昭和四九年七月三〇日ころ、単身家を出て被控訴人と別居し、その約一か月後に被控訴人との話合いを試みたが、十分に話合いができず、同年一〇月一六日、なお被控訴人の飜意を期待しつつ、横浜家庭裁判所に離婚を求める調停の申立をしたが、同五〇年一月一七日に調停は不調に終わつた。その時点で、控訴人は、被控訴人との共同生活の回復をまつたく断念するに至つた。

2  右1に認定した事実によれば、控訴人と被控訴人との婚姻は、昭和四九年七月末ころ又は遅くも同年一〇月ころから同五〇年一月ころまでの間には破綻したものと認めるのが相当である。

三被控訴人は、控訴人の女性関係が婚姻破綻の原因である旨主張する。

1  <証拠>によれば、控訴人は、昭和四六年一一月ころから一か月余の間、前記二1(一)認定のような被控訴人との不和のために、家を出て被控訴人と別居していたことがあり、また、同年七月ころからしばらくの間渡辺某という女性と情交関係をもつたこと、しかし、控訴人は、渡辺との関係を絶ち、同年末ころからは被控訴人との同居に戻り、被控訴人も、控訴人の右の行為をひとまず宥恕して以後昭和四八年末ころまで一応は平穏な共同生活を回復し、その間二女玲子をもうけたことが認められる。右事実によれば、控訴人の渡辺との交際は、本件婚姻の破綻とは関係のないことと認めるべきである。

2(一)  <証拠>によれば、控訴人は、昭和五〇年五月二四日ころから、訴外荒木すみ子(以下「すみ子」という。)と同棲を始めて事実上の夫婦として生活し、同五三年五月三〇日、同女との間に女子智恵をもうけ、同年六月八日これを認知した事実が認められる。

(二)  ところで、原審及び当審における被控訴人本人の供述中には、控訴人が、昭和四九年五月以前からすみ子と情交関係にあり、同女と同棲する目的で被控訴人と別居するに至つたものであると推測する趣旨を述べる部分があるが、右供述自体によつても、右推測に相当の根拠があるものとは解しがたい。他方、<証拠>を総合すれば、控訴人は、昭和四九年二月ころ、勤務先の下僚であつたすみ子から、同女とその前夫小菅勝四郎との不和の問題について相談を受けて、両者の間の斡旋を試みたことがあり、そのようなことから、同女ともある程度親しさを増し、同年四月ころには、国鉄ストの際に同女を自宅に泊めたり、引越の手伝をしたこともあつたこと、すみ子は、昭和四八年六月二七日に小菅勝四郎と協議離婚をしたものの、同年八月ころから再び同人と同居し、結局不和が解消せず同四九年二月ころから再び別居したこと、しかし、その後も、すみ子は、小菅勝四郎とまつたく関係を絶つたわけではなく、僅かながらもなお婚姻回復の可能性があるものと考えて、同年九月末ころまでは時折同人と会つており、その間同年五月と八月ころにはいつしよに旅行もしたこと、他方、控訴人は昭和四九年七月三〇日ころ被控訴人と別居してから、同年一一月下旬ころまで、自己の実家の両親のもとに寄寓していたことが認められ、この事実に照らせば、控訴人とすみ子とが事実上の結婚の意思を固めたのが、昭和五〇年一月前記調停が不調に終わつたのちである旨の右証人の証言及び控訴人本人の供述も、首肯しえないものではない。したがつて、被控訴人本人の前記推測に関する供述部分は採用することができず、他に右推測にかかる事実を認めるに足りる証拠はない。

そうすると、控訴人とすみ子との情交関係は、本件婚姻の破綻後に生じた事実であつて、右破綻とは関係がなく、控訴人の離婚請求を排斥すべき事由とするに足りないものというべきである。

四以上の認定によれば、本件婚姻は破綻しており、しかも控訴人側に過半の責があるものとは認められないから、控訴人が被控訴人に対し民法七七〇条一項五号に基づいて離婚を求める本訴請求は理由がある。

次に、原審及び当審における被控訴人本人の供述によれば、被控訴人は、別居後、働きながら、長女容子、二女玲子の二児を監護しており、今後も手もとにおいて養育する考えでいること、前示のとおり二児がまだ幼いことが認められ、前記三2(一)に認定した控訴人側の状況と対比すると、右二児の親権者には被控訴人を指定するのが相当と認められる。

よつて、控訴人の請求を棄却した原判決は失当であつて、本件控訴は理由があるから、原判決を取消して右請求を認容し、二児の親権者を被控訴人と定め、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九六条、第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(小河八十次 日野原昌 野田宏)

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